あすこの田はねえ 宮沢賢治 [読書]
・・・雲からも風からも
透明な力が
そのこどもに
うつれ・・・
「あすこの田はねえ」
あすこの田はねえ
あの種類では窒素があんまり多過ぎるから
もうきっぱりと灌水〔みづ〕を切ってね
三番除草はしないんだ
……一しんに畔を走って来て
青田のなかに汗拭くその子……
燐酸がまだ残ってゐない?
みんな使った?
それではもしもこの天候が
これから五日続いたら
あの枝垂れ葉をねえ
斯ういふ風な枝垂れ葉をねえ
むしってとってしまふんだ
……せわしくうなづき汗拭くその子
冬講習に来たときは
一年はたらいたあととは云へ
まだかがやかな苹果[りんご]のわらひをもってゐた
いまはもう日と汗に焼け
幾夜の不眠にやつれてゐる……
それからいゝかい
今月末にあの稲が
君の胸より延びたらねえ
ちゃうどシャツの上のぼたんを定規にしてねえ
葉尖[ はさき ]を刈ってしまふんだ
……汗だけでない
泪も拭いてゐるんだな……
君が自分でかんがへた
あの田もすっかり見て来たよ
陸羽一三二号のはうね
あれはずゐぶん上手に行った
肥えも少しもむらがないし
いかにも強く育ってゐる
硫安だってきみが自分で播いたらう
みんながいろいろ云ふだらうが
あっちは少しも心配ない
反当[たんとう]三石二斗なら
もうきまったと云っていゝ
しっかりやるんだよ
これからの本統の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
ではさようなら
……雲からも風からも
透明な力が
そのこどもに
うつれ……
1927.7.10
教師である賢治の生徒に対する姿勢や愛情があふれています。本当の学びとはどういうことなのかーー軽やかで優しい言葉が主張しています
中学校の教科書に採用されていて、そこに載っている解説文です。
賢治の言葉はほんとうにあたたかい。
青田のなかに汗拭くその子
・・・汗だけでない
泪も拭いているんだな・・・
七月十日の日付がありますから、時期的にはいまより二週間くらい前のものですね。
懸命に骨身を惜しまずに働く青年の姿が、ここにはあります。
コメント 0