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'05.7.13.朝日新聞 後藤田正晴さんに聞く [雑記]

後藤田正晴 2005年9月19日、肺炎のため死去。享年91

後藤田自身は、自分を保守的な政治家であると考えていたが、晩年には「自分が左派扱いされるのは、日本が右傾化し過ぎているのではないのか」と、戦争体験者として、最後まで憂慮の念を抱いていた。

生涯を通じて、哲学のある政治家ともいわれる。
小泉純一郎内閣に対して、「極度のポピュリズムが目立ち、危険だ」と指摘していた。
                         出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


後藤田正晴はタカ派の元警察官僚というイメージが強い方です。決してクリーンなイメージではありません。田中派だったことから中国寄りの立場での発言になるのは当然ですが、戦後政治に深く関わってきた方の言葉は説得力があります。戦犯者に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」が適用された→靖国神社の祭神選考の対象となる という流れにも当時の時代背景があるようですが、今となってはそのあたりの時代の空気はわかりません。この朝日新聞のインタビューを読むといろいろな問題点が整理されて頭に入ってきました。以下、全文です。私的おぼえがき。


小泉首相の靖国神社参拝をきっかけに、近隣国との関係が揺らいでいる。東京裁判を否定する自民党や政府の要人の発言が絶えない。復員直後に東京裁判を傍聴し、官僚、そして閣僚として戦後政治を見つめてきた後藤田正晴さんに聞いた。(聞き手 宮田謙一)

東京裁判を傍聴したそうですね。
「確か1946(昭和21年)年だった。関東軍特殊演習(関特演)をめぐってソ連側検事が日本の責任を追及する場面だった。東条英機元首相ら被告席のA級戦犯たちはそれなりに気概をもって臨んでいる印象を持った。半面、この人たちに私たちは指導されていたのかという、割り切れない気持ちもあった」
「印象的だったのは、米軍の将校が戦犯の弁護人を務めていたことだ。日本の被告の立場に立って一生懸命弁護していて、どこか異様な感じがした」


復員した当時、日本の戦争責任についてどう感じていましたか。
僕は陸軍で6年間、軍務に従事した。敗戦についてそれなりの負い目を感じていた。だが、46年4月に復員した時、「1億総懺悔」という言葉を聞きどういうことなのかと強い疑問を持った。一般の国民は国の方針に従って命令されて戦に赴き、あるいは銃後を守った。国全体が戦争に負けた無念さを共有するのはわかるが、全国民が責任を負うというのは納得できなかった。

最近、政府の要人から東京裁判が「勝者の裁きであり、不当だ」といった意見が出ています。
「第1次大戦後、戦勝国はドイツが再び脅威になることを、防ごうと、再起できないほどの過大な賠償を科した。その結果、ナチスの台頭を招いた。その反省から、敗戦国の全国民に責任を負わせるのではなく、平和に対する脅威を引き起こしたナチスの戦争指導者を裁き、そこに責任を負わせる、そういう新しい戦後処理の方法を考え出した。それがニュルンベルク裁判であり、東京裁判だ。戦勝国の国民を納得させるためにも、それは必要だった。歴史の教訓から生まれた勝者の知恵だと思う」

A級戦犯は犯罪人ではない、という主張もあります。
A級戦犯といわれる人たちが戦争に勝ちたいと真剣に努力したことを、誰も疑っていない。しかし、天皇陛下に輔弼(ほひつ)の責任を果たすことが出来なかった。国民の多くが命を落とし、傷つき、そして敗戦という塗炭の苦しみをなめることになった。そのことに、結果責任を負ってもらわないといけない

東京裁判を受託した51年のサンフランシスコ講和条約11条について「判決は受け入れたが裁判全体を認めたわけではない」という意見があります。
「負け惜しみの理屈はやめたほうがいい。サンプランシスコ講和条約は、戦後日本が国際社会に復帰し、新しい日本を築く出発点だ。それを否定して一体、どこへ行くんですか」
「東京裁判にはいろいろ批判もあるし、不満もあった。ただ、裁判の結果を受け入れた以上、それにいまさら異議を唱えるようなことをしたら、国際社会で信用されるわけがない。条約を守り、誠実に履行することは、国際社会で生きていくために最低限守らなければいけないことだ」

A級戦犯を合祀した靖国神社に首相が参拝することを、戦争責任との関係でどう考えますか。
「東京裁判の結果、処断された人たちであるA級戦犯を神としてまつる。これは死者を追悼するとともに、その名誉を称える顕彰(けんしょう)でもある。そこに条約を締結した国の代表者が正式にお参りすることは、戦勝国の国民に対して説明がつかない。日本国民としても、敗戦の結果責任を負ってもらわなくてはいけない人たちを、神にするのはいかがなものか、という疑問があるだろう。首相は靖国神社参拝を控えるのが当然だ」
「年金のような公的扶助をA級戦犯の遺族にも出すようになったのは、そうした方々の戦後の生活が苦しくて気の毒だ、放っておけないという配慮だった。靖国神社に神として合祀するのとは別の問題だ」。

小泉首相は参拝の理由を「私の信条に発する」と説明している。
「個人の信条と首相としての立場を混交している。驚いたのは首相は国会答弁で『A級戦犯を戦争犯罪人と認識している』と言ったことだ。戦争犯罪人だと考えるなら、なぜお参りするのか。サンフランシスコ講和条約を守る意思がないということになる。いよいよ筋が通らないのではないか」

新しい追悼施設の設置や、A級戦犯をの分祀を求める声もあります。
「国民の多くは戦死者をまつる中心的施設は靖国神社と考えている。戦死者自身、靖国神社にまつられたことで安らぎを感じているはずだ。新施設ができるとそうした安らぎが壊れ、遺族に対して申し訳ないことになるのではないか」
「分祀したとしても神としてまつられたままでいるわけだ。戦争の結果責任はどうなるのかという問題は残る。1番いいのは分祀されているA級戦犯のご遺族が、それぞれの家庭に引き取って静かに慰霊なされることだろう。どれもだめだというのなら、新施設をつくるのはやむをえないかもしれない」

中曽根首相は85年8月15日に靖国神社を公式参拝し、中国などの批判で翌年から取りやめました。後藤田さんは取りやめを決断した時の官房長官でした。
「86年8月15日が迫るなか、中曽根さんに『どうなさいますか』と聞く時はつらかった。彼は弟が戦死し、公的にも私的にも参拝したい気持ちが強かった。中曽根さんが終戦記念日の首相の参拝について『恒例のものなんですか』と聞くので、『その時々の判断です』と答えると『それなら差し控えたい』とおっしゃった。一国の首相という立場と個人の信条は区別すべきであるというのが、中曽根さんの考えだった」

当時、A級戦犯の分祀を模索しました。
「政教分離の原則があるから政治として動くわけにはいかなかった。ただ、何とか中曽根さんがおまいりできるようにと、靖国神社の崇敬者総代だった大槻文平さん(故人、元日経連会長)に相談した。宮司と話してくれたが、『分祀はできない』との答えだったという。遺族会出身の板垣正参院議員がA級戦犯の遺族を回ってくれたが、分祀への賛否はまちまちということだった」

首相の靖国神社参拝を中国にいわれて止めるのはおかしいという主張もあります。
「確かに中国に言われて決める問題ではない。サンフランシスコ条約を遵守するかどうかの問題であり、日本自身が解決すべき国際道義上のことだ」
「中国にも問題がないわけではない中国当局の反日デモの警戒警備は失敗だったと思う。『警備に落ち度があった。申し訳ない』というのが大国の度量だろう」
「だからといって、靖国に中国がとやかく言うのは内政干渉だ、けしからんというのは間違いだ」

中国、韓国との関係が悪化しています。
「外交とは、日本の中長期の国の姿を描きながら、計算し、戦略的な判断をすべきものだ。1番避けなければいけないのは行き当たりばったりの外交だ。だが日本の最近の外国には戦略性がかけていると思う」
「いま国民全体が保守化しつつあるが、それを背景に政治家がナショナリズムをあおり、強硬な態度をとれば間違いない、という空気がある。大変な過ちを犯している。米国のそばにいれば安心だというのは1つの選択だが、中国や韓国を敵に回していいはずがない。地政学的な配慮が足りない。アジア近隣各国との友好こそが大事なことだ」'05.7.13.朝日新聞


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